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小茎(おぐき) 22.6.11(金)

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 今日は、小茎地区です。10時に茎崎公民館をスタート。最初は、旧茎崎町役場内の道路元標です。    大正時代に制定された旧道路法では、全国の市町村に一箇所設置することとなっており、高さ60cm、幅、奥行きともに25cmと決められており、天端には丸みがつけられることとなっていましたが、まさに、そのままの姿が残っています。旧茎崎では、大字小茎、字前原の182番地の村役場前に設置する旨、大正9年3月22日に 告示  されています。  このほか、忠魂碑、報国碑が据えられていました。    お隣の茎崎農協には、Kさんも把握していなかった報徳神社が祀られていましたが、由来などは不明ですが、二宮尊徳さんと関係しているのでしょうか?  西へ少し行くと、小茎の農村集落センターです。この敷地には、明治初年に廃寺となった福寿院があったところで、明治22年に旧村合併した当時の最初の茎崎村役場が設置されたそうです。  集落センターを過ぎたところで左に曲がり、南に進んでいった最初の四つ角の北西側には、三面六臂の 馬頭観音   、南西側には道祖神の石の祠がありました。     馬頭観音(全体と拡大)、道祖神  道をしばらく南に辿り、四つ角を西に曲がると、ここいらは、昔、天神山で、天神様を祭っていたそうですが、遠い昔に、高崎の八坂神社に移されたそうです。いまも、蛇神さまの石の祠があるそうですが、藪の中でとても入っていけません。  道を牛久沼に下っていくと、天神下の渡し場があり、ここから、対岸の岩崎までの唯一の交通路として、永作の舟渡までを結んでいたそうです。 (天神の渡し場の説明文)  次は、道を北に辿り、野田牛久線を横切ってさらに北に行くと、小茎の八坂神社です。   八坂神社の鳥居と拝殿 八坂神社由来  由来では、気性の荒い神様であったことから、上岩崎で沼に流されたスサノオノミコトのご神体が、上流であるこの地に流れ着き、こちらで祀られるようになったとのことです。  小茎の八坂神社が文明年間(1469~1487)に創建されたとするのに対し、上岩崎の日吉神社は、1398年頃創建された神社とされており、現在の御祭神は大山咋命(オオヤマクイノミコト)です。 ...

大井再訪 22.6.5(土)

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 前回の樋の沢・大井探訪では廻りきれなかった箇所を訪れました。  今回は、つくバスで、集落センターまで行き、スタートです。  最初は、香取神社ですが、館野牛久線を北に少し戻り、南東に入っていくと、香取神社は畑の中にポツンと建っていました。このあたりは、下大井遺跡の区域であり、歩くと土器片があちこちに落ちており、さらに、香取神社の位置は大井古墳群の北端にあたるとされていますが、正確な位置は不明です(参考  埼群古墳館 )。 ※ 香取神社(以下、 茎崎町史 P316から) 祭神は経津主命(ふつぬしのみこと) 配祀 大山咋命(おおやまぐいのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、菅原道真公 延元三年(1336)十月、下総香取神宮の分霊を遷祀したと伝えられる。 明治六年(1873)九月、地区内の日枝、厳島、北野の各神社を合併   香取神社の鳥居と鳥居脇の道祖神さま  道祖神は、道路側に背を向け、神社側を向いていましたが、なにか意味があるのでしょうか?また、石棺の一部と思われる石の上にのっていました。   拝殿と境内にある三つの祠  Kさんが平成8年に訪問したのちに、建て替えられており、だいぶ配置が変わっていました。拝殿がのっていた石は、いまは、脇の祠の土台となっていますが、ここにあったとされる古墳の石棺の石ではなく、『字「木口」(注:大井五十塚古墳群のあたり)に沢山の古墳があるが、伝承によれば、其の処に一部分露出していた平石を掘り出して神社まで運び、これを並べて土台としたと云う』( 大井沿革 P9)とされています。  香取神社の次は、畑の中を歩いて、古くからあるという共同墓地やゴロゴロしているという土器片などを見に行きました。香取神社を少し下がった東側からみると、古墳のイメージが残っているでしょうか? 神社の境内は木が覆っていました。  土器片は、下大井のあたりは見かけられましたが、上大井のほうへ行くと、すっかり耕されていて、あまり見かけられませんでした。何箇所かある共同墓地では、様々な石造物が見られました。   観音様やお地蔵様を浮き彫りにした石碑など  この後、昔、石棺の中から剣が発見されたとする字「権現堂」あたりを見てみましたが、すでに民家となっており、残念ながら、痕跡は見つかりませ...