城山・高崎 22.7.7(水)
今日は、城山団地からスタート。ここは、岡見氏の支城である高崎城があったところで、当時は周囲を稲荷川沿いに広く水が入り込んでおり、さらに、堀や土塁をめぐらせていたようです。現在は、団地の造成で面影が残っていませんが、土塁の一部と思われるところや古い地図から当時が偲ばれます。
要害とは、城砦とかとりでの意味であり、「要害」の部分に砦があったと思われます。古い写真を見ると、要害の部分はかなり高くなっていたようです。
①の部分には大手門があったとされ、②にあった神明様と字「観音」の③あたりにあった馬頭観音は、高崎の八坂神社に移されたといわれています。
これは、天正16(1588)年、この地域を支配していた岡見氏が下妻の多賀谷勢に攻められ、高見原で激戦になり、牛久城主であった岡見五郎兵衛が、その家来で高崎城主であった佐野内膳とともにこの地(字千部塚付近)で討ち死に(あるいは自刃)したことを悼んで、昭和14年に建立されたものだそうです(茎崎町史P228など)。
慰霊碑から北上し、県道143号谷田部牛久線を横切って、茎崎第一小学校へ。
小学校の脇には、お三ツ目さまが祀られていましたが、柵に囲まれており近くによることはできませんでした。
小学校には、郷中塚古墳の一部が保存されていましたが、詳細はまた今度として、お隣の八坂神社へ。高崎の八坂神社は、平成21年6月に補改修されており、社殿のうえには覆屋(おおいや)が設けられ、見違えるようになっていました。
この後、道々、道祖神や道標などを見ながら、スタート地点に戻りました。
要害とは、城砦とかとりでの意味であり、「要害」の部分に砦があったと思われます。古い写真を見ると、要害の部分はかなり高くなっていたようです。
①の部分には大手門があったとされ、②にあった神明様と字「観音」の③あたりにあった馬頭観音は、高崎の八坂神社に移されたといわれています。
- 伊勢神宮の神霊(天照大御神)を分祀して祀る神社のことを神明社といい、「神明さま」とも呼ばれているようです。
これは、天正16(1588)年、この地域を支配していた岡見氏が下妻の多賀谷勢に攻められ、高見原で激戦になり、牛久城主であった岡見五郎兵衛が、その家来で高崎城主であった佐野内膳とともにこの地(字千部塚付近)で討ち死に(あるいは自刃)したことを悼んで、昭和14年に建立されたものだそうです(茎崎町史P228など)。
慰霊碑から北上し、県道143号谷田部牛久線を横切って、茎崎第一小学校へ。
小学校の脇には、お三ツ目さまが祀られていましたが、柵に囲まれており近くによることはできませんでした。
小学校には、郷中塚古墳の一部が保存されていましたが、詳細はまた今度として、お隣の八坂神社へ。高崎の八坂神社は、平成21年6月に補改修されており、社殿のうえには覆屋(おおいや)が設けられ、見違えるようになっていました。
- 創建年不詳(天正2年(1574年)創建とする資料もある)
- 祭神はスサノオノミコト
- 古来「牛頭天王」と尊称されるも、明治年に八坂神社に改称
- 旧村社
- 境内社としては、稲荷神社、厳島神社、鹿島神社、八幡宮、猿田彦神社、神明神社、日枝神社、天満宮、愛宕神社が祀られています。
この後、道々、道祖神や道標などを見ながら、スタート地点に戻りました。
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