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歩いて発見!茎崎めぐり 22.10.17(日) その2

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 泊崎には見どころがいくつかあります。泊崎城址、弘法大師堂そして牛久沼の風景などです。 牛久沼に突き出した岬の先端近くにあった泊崎城は、富士見台団地の造成により、滅失してしまいましたが、城郭に関するホームページである『 余湖くんのホームページ 』に、復元図が、アオレンジャーさんの「 北緯36度付近の中世城郭 」に航空地図が掲載されています。  応永3年(1396)に小田氏の一族であった岡野康朝によって築かれたといいますが(村史P280、なお、大正5年の稲敷郡志にも同様の記載があります。)、後に、下妻の多賀谷氏が砦を築き、岡見氏滅亡の一因となったようです(町史P113など  岡見中務大輔宛、北条氏照書状天正15年(14?)3月14日)。   さて、この岬の先端には、泊崎の大師堂があります。伝承では、大同元年(806年)に、空海上人(後の弘法大師)がこの地にみえて、千座護摩を修したと伝えられており、そのときの、護摩の灰で作られたという弁財天像が残されています(前に紹介したように、現在は、守徳寺にあります)。  実際には、その頃、空海上人は、唐から帰朝したばかりで、都にいたようですが、上人に所縁のある方が、都から見えたのかもしれません。  牛久沼は、茨城百景に選ばれており、ここに、石碑が建てられており、また、ここからの景色は、泊崎夜雨として牛久沼八景、そして泊崎逆松として十二景とも言われているそうです。  稲敷郡志では、その景色を、「陸地長く西北より起り牛久湖中に突出し右に秩父の連峯芙蓉の白姿を望み左に日光筑波の青巒(せいらん)を指さし前方に婉々たる常磐線を眺め俯して望めば松影藍水に寫し宛(あた)かも仙境にあるを覺えしむ。」と形容しています。  このほか、弘法の七不思議の言い伝えがあります。   現存しているのは逆松と駒の足跡、そして、硯水  岬の突端には、個人の方が作られた朱色のお堂の七浦大明神と泊崎弁財天がありました。    この後、天宝喜の厳島神社、高崎城のあった城山、小茎の八坂神社などを見て回りました。   厳島神社と八坂神社 結構、盛りだくさんでしたが、茎崎公民館で反省会を行って、解散。ありがとうございました。

歩いて発見!茎崎めぐり 22.10.17(日) その1

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  アースデイつくば の合同イベントで、今年は、茎崎をめぐることとなり、参加しました。  環境にかかわるつくば周辺の市民団体がゆるやかなネットワークをつくり、企業や行政とも手を結んで、毎年、4月22日にアースデイ(地球の日)を中心に、”Think Globally, Act Locally”を合言葉に、多彩な活動を繰り広げています。 これまで、地域めぐりとしては、つくば市内の小田、北条、筑波山麓、谷田部といった地域で歩いて発見をしてきており、それぞれマップが作成されています。  朝9時につくば市のふれあいプラザに集合して、プラザの3階展望室から周辺を眺めながら、本日の講師のお一人であるMさんから、地域の概要について説明をしていただきました。    その後、プラザを出発して、牛久沼にあった渡し場の跡に行きました。そこで、本日の講師の一人であるKさんから、昭和8年に木の茎崎橋ができるまでは、この周辺では唯一の交通手段であったこと、こちら側(沼の西側)が永作の舟渡し、対岸側(沼の東側)が天神下の舟渡しで、昭和の初めころ渡し賃が2銭であったことなどの説明を受けました。  次に、旧茎崎村の大字の一つである下岩崎の集落センターを訪ねました。こうした集落センターには、昔の石造物が集められていることが多く、ここにも馬頭観音の石碑などの多くの石造物があったほか、観音堂がありました。  この観音堂は、豊臣政権下、牛久城主となった由良国繁の母月海妙円尼が、かってのこの地方の領主であった岡見一族はじめ多くの戦死者の霊を弔うため、領内に七観音八薬師を建立したそうですが、そのひとつである岩崎下の観音が祀られているといわれています(なお、お堂は別なところ=旧字地蔵堂の近くにあったもので、ご本尊だけここに移されたともいわれているようです)。  八観音の一つに、旧谷田部の羽成観音がありますが、ここの天井画は「谷田部に過ぎたるもの三つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と歌われた蘭学者の広瀬周度が描いたとされており、谷田部マップでも紹介されています。  このあと、守徳寺に伺いました。予定時間に遅れ、ご住職にご迷惑をおかけしてしまいましたが、寺宝の護摩の灰弁天像を拝見させていただきました。  この護摩の灰の弁天像、元は泊崎の弘法大師堂にあったものが、太子堂を...

高崎から菅間 22.10.7(木)

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 今日は、高崎の孝学院前の旧道の突き当りにある道祖神 ⇒子育延命地蔵尊⇒郷中塚古墳⇒月読尊石碑⇒菅間の熊野神社を訪ねました。    旧道の奥の道祖神さまの祠  Kさんのお話では、数年前まで、孝学院の入り口には犬供養のザガマタがたてられていたようですが、見当たりませんでした。だんだん、昔の風習を伝える方がいなくなってしまったのでしょうか。  ここから、高崎十字路へゆく途中、長屋門のあるお屋敷を過ぎると、子育延命地蔵堂があります。  地蔵尊縁起によると、ここに祀られている子育延命地蔵尊は、奈良時代の高僧、行基(668年~749年2月23日、没後、朝廷から菩薩の称号が下され、行基菩薩といわれる)の作とされており、さらに、小田氏の始祖とされる八田知家(平安時代後期から鎌倉時代の1218年)の守り本尊であったとされていますが、一方で、現存する子育延命地蔵尊は、金箔・木造で、享保三年(1718)領主山口公寄進とあるとされています(茎崎村史P209など)。一体どのような経緯があったのでしょうか?  なお、茎崎町史には、写真が掲載されています(P287)。   地蔵堂と敷地内の石仏など  そういえば、このお堂は享保三年(1718)に建てられたようですが、その向きは、道路に向いておらず、すぐ隣地の塀になってしまいなんとも不思議です。道路の位置が変更になったのか、明治初めに廃寺となった高雲山龍蔵寺成就院(文明五年・1473建立)の敷地は、寛政八年・1796の諸色改帳によると幅二十七間、奥行二十間あったとされますから(高嵜 その昔を語るP18)、お堂の前面も、もっと広かったのでしょう。  次に、高崎十字路を渡り、茎崎第一小学校敷地にある郷中塚古墳と市の天然記念物に指定されているシイの木を訪ねました。    茎崎第一小学校の校庭の塚は、元は現在の十倍近くあり、大日塚と呼ばれた古墳ともいわれています。郷中塚古墳群は5基あったといわれますが、現在残っているのは、ここと、校庭の南側の2か所のようです。 校庭の南側の古墳  この古墳の上には、宝篋印塔と石碑がありました。    宝篋印塔の方は、隅飾りのついた笠、塔身、基礎、返花座はあるのですが、相輪の部分などがなく、基礎も一つ多いようです。なお、二段目の基礎と思われる部分に格座...