高崎から菅間 22.10.7(木)

 今日は、高崎の孝学院前の旧道の突き当りにある道祖神 ⇒子育延命地蔵尊⇒郷中塚古墳⇒月読尊石碑⇒菅間の熊野神社を訪ねました。
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旧道の奥の道祖神さまの祠

 Kさんのお話では、数年前まで、孝学院の入り口には犬供養のザガマタがたてられていたようですが、見当たりませんでした。だんだん、昔の風習を伝える方がいなくなってしまったのでしょうか。
 ここから、高崎十字路へゆく途中、長屋門のあるお屋敷を過ぎると、子育延命地蔵堂があります。
 地蔵尊縁起によると、ここに祀られている子育延命地蔵尊は、奈良時代の高僧、行基(668年~749年2月23日、没後、朝廷から菩薩の称号が下され、行基菩薩といわれる)の作とされており、さらに、小田氏の始祖とされる八田知家(平安時代後期から鎌倉時代の1218年)の守り本尊であったとされていますが、一方で、現存する子育延命地蔵尊は、金箔・木造で、享保三年(1718)領主山口公寄進とあるとされています(茎崎村史P209など)。一体どのような経緯があったのでしょうか?
 なお、茎崎町史には、写真が掲載されています(P287)。

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地蔵堂と敷地内の石仏など
 そういえば、このお堂は享保三年(1718)に建てられたようですが、その向きは、道路に向いておらず、すぐ隣地の塀になってしまいなんとも不思議です。道路の位置が変更になったのか、明治初めに廃寺となった高雲山龍蔵寺成就院(文明五年・1473建立)の敷地は、寛政八年・1796の諸色改帳によると幅二十七間、奥行二十間あったとされますから(高嵜 その昔を語るP18)、お堂の前面も、もっと広かったのでしょう。
 次に、高崎十字路を渡り、茎崎第一小学校敷地にある郷中塚古墳と市の天然記念物に指定されているシイの木を訪ねました。
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 茎崎第一小学校の校庭の塚は、元は現在の十倍近くあり、大日塚と呼ばれた古墳ともいわれています。郷中塚古墳群は5基あったといわれますが、現在残っているのは、ここと、校庭の南側の2か所のようです。
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校庭の南側の古墳
 この古墳の上には、宝篋印塔と石碑がありました。
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 宝篋印塔の方は、隅飾りのついた笠、塔身、基礎、返花座はあるのですが、相輪の部分などがなく、基礎も一つ多いようです。なお、二段目の基礎と思われる部分に格座間が二つあるので、関東形式のもののようです。 宝篋印塔の各部と名称
 石碑には、皈元という字が彫られていますが、戒名などに使うことがあるようなので、墓石なのかもしれません。なお、皈元=帰元(きげん)・・・皈は帰の異体字。死を意味する語。生滅界(この世)を脱して真寂の本元に還る意味で、『楞厳経(りょうごんきょう)』に「帰元ニ二路ナシ」とあるそうです。http://www.harasangyo.co.jp/reader/file73.html
 高崎十字路から菅間方向へ450mほどいった三叉路には月読尊の石碑がありました。 正面右側には、「右 大・・」⇒大井。左側には、「左 池の・・」⇒池の台となっており、裏面には、「明治三十九年」とあるようです。
 十六か村の村社として、三夜様として賑わっていた樋の沢の月読神社へお参りする際の道標として建てられたものでしょうか?

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 月読尊の石碑から菅間方向へ進むと、菅間ふれあいセンターが見えてきますが、そこには、熊野神社があります。
 茨城県神社庁には、熊野神社しか登録されていないようですが、日枝神社と合祀されており、神額をみると、大正甲子十三年一月二十六日 東宮裕仁親王(後の昭和天皇)御成婚記念と記されています。

 熊野神社の御祭神は、伊邪那岐命で、 建久二年(1191)九月五穀成就村民安泰のため、紀伊国熊野神社の分霊を遷祀と伝えられているそうです。日枝神社については、御祭神、由緒とも不明。一般的には、大山咋神(おほやまくひのかみ)を祭神としているようです。
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 ここには、古墳があったそうで、旧茎崎に3箇所ある『鼻の大きな大日様』が祀られていたようです。素朴な姿ですが、親しみがわきます。
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 疲れすぎないように、今日はここまで。


 

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