樋の沢・大井地区 22.5.14(その1)
第1回目は、樋の沢・大井地区です。
10:15 高野台3丁目(高野台公園付近)からスタート
南東へしばらく行くと鬱蒼とした林に突き当たります。後で調べると清遊亭となっていましたが、ネットではヒットせず、どのような施設なのかは不明。
さらに、東方向へ行き、6号バイパスを横切って、少し北上し、右折すると三日月神社がありました。
※ 三日月神社(つくば市市之台107)
- 江戸時代の初期、1611(慶長16)年、三日月不動明王を祀り、村内安泰と五穀豊穣を祈願。1703(元禄16)年、社殿を建立。
- 1840(天保11)年、近くで発生した山火事で類焼したが、翌1841(天保12)年、再建。
- 山火事で類焼したが、翌1841(天保12)年、再建。
- 社殿の老朽化に伴い、1977(昭和52)年に改築された。
(以上 つくば新聞・つくば市の神社から) - 神社台帳(茨城県神社庁)には未登録
神社の近くには、丸太の鳥居が建てられていて、道祖神さまが祀られていました。
昔ながらの6mほどの道(茨城県道202号 館野牛久線)を牛久方面に行くと、左手に立派な家がありましたが、月読神社の神主さんのお住まい(社務所)だそうです。
※ 月読神社(つくば市樋の沢208)
- 945(天慶8)年の創建と伝えられている。平将門の護持仏であった勢至菩薩が本尊。
- 別名「三夜様」と呼ばれ、農業・開運の神として広く人々の信仰を集めてきた。
- 現在の社殿は、1628(寛永5)年に建立された。
(以上 つくば新聞・つくば市の神社から)
※ 筒粥(つつがい)神事
- 神職による来年の作物の吉凶占い
- 2010年は10月17日に占いが行われ、結果は、三夜祭、正月の縁日に披露されるとのこと
「つくば周辺伝統行事カレンダー」から - 大釜で粥を煮て、藁(葦が一般的なようです)をさして、その筒の中に米粒がどのくらい入っているかで、来年の作物を占うとのことで、その大釜を置いたといわれる石組みが残っていました。
- 調べてみると、諏訪大社(長野)のほか、関東甲信の神社が多いようです。
- 対象とする作物の数で、入れる葦などの本数が異なっているようで、諏訪大社では44本、師岡熊野神社では27本、山荻神社では19本などとなっています。また、神事が行われる日もまちまちですが、1月14日の夜が多いようです。
- いわれもいろいろです。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父の景行天皇が諸国巡幸の際に、五穀豊穣(ほうじょう)を祈ったことに由来するとされたり、村上天皇の御世からあるとされたり、江戸時代からのところもあるようです。
※ 月読神社の椎の木
- 月読神社には、大きな椎の木(スダジイ)があり、ご神木となっています。
- つくば市のホームページでは、樹齢600~700年、樹高30m、樹幹の太さ約8m
- 8mはややオーバーとしても市内でも屈指の巨樹なのに、環境省巨樹・巨木林データベースに入っておらず、市の指定も受けていないのは不思議です。ちなみに、巨樹の定義は、地上から130cmの位置で幹周(幹の円周)が300cm以上の樹木。
- また、日本画家の石村雅幸さんが、月読神社の椎の木を描いて、第58回春の院展に「葉風光芒」として出品されていますが、とても素敵です。
絵は http://www.geocities.co.jp/Milano-Aoyama/7426/tukiyomi.jpg - (追記)石村さんは、平成16年にもこの樹を描いて、「天意考」という題で再興第89回院展に入選されているそうです。http://blogs.yahoo.co.jp/nihongayarou/39299926.html
月読神社から少し行き、樋の沢地区から大井地区に入って間もなく、圏央道をくぐる道との三叉路となっていますが、そこから、南側に下大井遺跡が広がっています。埋蔵文化財の包蔵地のしては広いのですが、圏央道の関係で発掘調査をおこなったので、この近辺が発掘の中心となった模様です。
※ 下大井遺跡 いばらきデジタルマップ・下大井遺跡
- 小野川右岸の標高約21m前後の台地上に位置
- 面積、4136.78㎡の畑から旧石器時代、縄文時代、古墳時代、平安時代、中世、近世の集落跡、塚、墓跡が発掘、遺構、遺物が出土。
- 調査は平成11年4月1日より同年8月31日まで茨城県教育財団によって実施
- 遺物の中には奈良時代に遠方からもたらされたと考えられる三彩陶器や、上家・上寺と書かれた奈良・平安時代の墨書土器、そして身分の高いお役人にしか着用が許されなかった革帯、青銅製のバックルがあり、常陸国風土記に記載された河内(かっち)郷の解明、つまり律令体制における郷庁がこの地にあり、役人が住んでいた可能性
- 石岡に国府を置いた常陸国九郡の内の河内郡河内内郷の存在を解明する貴重な資料と期待
以上、牛久沼ドットコム・歴史で観る牛久沼から
三叉路から沿道に、白壁の旧家が見られる中少し行くと、聖天神社が見えてきます。ここまでが、下大井の集落でこれより南は上大井の集落です。
地区の東側には小野川が流れていますが、上下は、山(川の上流)が上で、海(下流)が下となりそうなものですが、ここでは、逆になっているようにみえます。
地区の東側には小野川が流れていますが、上下は、山(川の上流)が上で、海(下流)が下となりそうなものですが、ここでは、逆になっているようにみえます。
一説には、都に近いほうが上(あるいは前)とする説があるそうですが、大井沿革では、従来、上にあった集落が先に(室町中期)現在の位置に移転し、その後(室町末期)に、下の集落が現在の位置にそれぞれ移転したためであるとしています。(「大井沿革 今昔語り草」 岡野春雄著)
※ 聖天神社(つくば市大井1278)
- 茨城県神社庁の神社台帳によると、ここには、稲荷神社があるはずなのですが、実際には、聖天神社が建っています。一体、どうなっているのでしょう?
- 大井沿革によると、稲荷神社は上大井の集落が現在の位置に移転した室町中期に建立されたもので、神社台帳の位置ではなく、私有地の一隅に鎮座しているとのことです。
- さて、この神社は、大井沿革によると、織田政権が確立しようとしている1574(天正2年)に建立されたもので、当初は南東に向いて立てられていたものが、1710(宝永7年)に北西向けて、改修され、現在の位置に遷座されたものと推測されています。
- また、大正時代に建立された聖徳太子像は、仏像であったため、併せ祀ることに異論もあったそうです。
- 本尊は密仏・歓喜仏。縁結び、夫婦和合にご利益があるとされています(つくば新聞・つくば市の神社)。
コメント
コメントを投稿