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六斗 22.12.19(日)

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先日の続きで六斗へ。  六斗の森から下に降りて、台地下の道を森の里方面へしばらく行くと、道の脇に祠があります。冠をかぶっていられるようで、天神様のようです。  さらに少し行くと、上に上る道がありますが、その曲がり角に、久松家の霊堂があります。 江戸初期にこの地に移住してきた久松家の初代のご夫婦の像及び当時持参したという阿弥陀如来坐像が祀られているそうです(町史P301)。久松家は茎崎村の「名望家」で、村会議員などを輩出しており、酒造業を行っており「和か松」というお酒を造っていたそうです。  道を上った三叉路のところに六斗の集落センターがあり、周辺の石造物が集められていました。    六斗という地名は昔は六斗蒔ともいったそうですが、Kさんのお話では、六斗の籾を蒔けば足りる程度の集落だったからといわれていたそうです。  他県や他の地域でも六斗とか五斗蒔という地名がありますが、田畑の収穫高表示法の一つで、町反歩や石高で示す代わりに、その田畑に蒔く種籾の量によって何合蒔、何升蒔あるいは何斗蒔と称していたそうです。  田植えのできない泥深い田圃では、直接種もみを蒔いたことと関係があるのではないかとも考えられます。  いずれにしても数軒の集落であったようです。  さて、道を左に六斗の森の方へ、十月桜が咲いていた路地を過ぎ、しばらく行くと、きれいな青面金剛像がありました。  Kさんには、また来年もお願いして、今年の茎崎めぐりは終わりです。

六斗・九万坪 22.11.18(木)

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 今日は、六斗の森からスタート。     六斗の森の入り口付近には、馬頭観音の石碑とザガマタ・・①がありました。付近には、愛犬のお墓があり、いわゆる畜生塚なのでしょう。    九万坪のほうに歩いていった分かれ道には、矢印のついた道標とここにも馬頭観世音の石碑・・②がありました。    九万坪の集落に向う十字路の右側には、藁宝殿・・③、左側には、道祖神とまだ新しいザガマタ・・④がありました。 <    九万坪の集落の中には、三峯神社(大正元年8月19日建立)と愛宕神社(大正元年8月24日建立)を合祀したお社・・⑤があり、その隣には弘法大師をお祀りした祠・・⑥がありました。    ちょうど畑で仕事をしていた方がみえて、色々教えていただきました。ここは、従来、庄兵衛新田であったところ、大正元年に、数軒で移住してきて、お祀りしたものだそうです。また、庄兵衛新田から九万坪に名称が変更になったのは平成の初めのころだったそうですが、名前の由来は、ここが約30町歩あったので、坪換算で九万坪になったそうです。  付近は高台になっており、九万坪遺跡(縄文、古墳、奈良平安、近世)と九万坪館跡(中世の城館跡)があったそうです。付近の埋め立てにだいぶ削られてしまったそうですが、当時は、土器がたくさん出土したそうです。    ここから、台地下の道を通り、途中で、12万年前頃の貝層などをみて、六斗の森に戻りました。

歩いて発見!茎崎めぐり 22.10.17(日) その2

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 泊崎には見どころがいくつかあります。泊崎城址、弘法大師堂そして牛久沼の風景などです。 牛久沼に突き出した岬の先端近くにあった泊崎城は、富士見台団地の造成により、滅失してしまいましたが、城郭に関するホームページである『 余湖くんのホームページ 』に、復元図が、アオレンジャーさんの「 北緯36度付近の中世城郭 」に航空地図が掲載されています。  応永3年(1396)に小田氏の一族であった岡野康朝によって築かれたといいますが(村史P280、なお、大正5年の稲敷郡志にも同様の記載があります。)、後に、下妻の多賀谷氏が砦を築き、岡見氏滅亡の一因となったようです(町史P113など  岡見中務大輔宛、北条氏照書状天正15年(14?)3月14日)。   さて、この岬の先端には、泊崎の大師堂があります。伝承では、大同元年(806年)に、空海上人(後の弘法大師)がこの地にみえて、千座護摩を修したと伝えられており、そのときの、護摩の灰で作られたという弁財天像が残されています(前に紹介したように、現在は、守徳寺にあります)。  実際には、その頃、空海上人は、唐から帰朝したばかりで、都にいたようですが、上人に所縁のある方が、都から見えたのかもしれません。  牛久沼は、茨城百景に選ばれており、ここに、石碑が建てられており、また、ここからの景色は、泊崎夜雨として牛久沼八景、そして泊崎逆松として十二景とも言われているそうです。  稲敷郡志では、その景色を、「陸地長く西北より起り牛久湖中に突出し右に秩父の連峯芙蓉の白姿を望み左に日光筑波の青巒(せいらん)を指さし前方に婉々たる常磐線を眺め俯して望めば松影藍水に寫し宛(あた)かも仙境にあるを覺えしむ。」と形容しています。  このほか、弘法の七不思議の言い伝えがあります。   現存しているのは逆松と駒の足跡、そして、硯水  岬の突端には、個人の方が作られた朱色のお堂の七浦大明神と泊崎弁財天がありました。    この後、天宝喜の厳島神社、高崎城のあった城山、小茎の八坂神社などを見て回りました。   厳島神社と八坂神社 結構、盛りだくさんでしたが、茎崎公民館で反省会を行って、解散。ありがとうございました。

歩いて発見!茎崎めぐり 22.10.17(日) その1

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  アースデイつくば の合同イベントで、今年は、茎崎をめぐることとなり、参加しました。  環境にかかわるつくば周辺の市民団体がゆるやかなネットワークをつくり、企業や行政とも手を結んで、毎年、4月22日にアースデイ(地球の日)を中心に、”Think Globally, Act Locally”を合言葉に、多彩な活動を繰り広げています。 これまで、地域めぐりとしては、つくば市内の小田、北条、筑波山麓、谷田部といった地域で歩いて発見をしてきており、それぞれマップが作成されています。  朝9時につくば市のふれあいプラザに集合して、プラザの3階展望室から周辺を眺めながら、本日の講師のお一人であるMさんから、地域の概要について説明をしていただきました。    その後、プラザを出発して、牛久沼にあった渡し場の跡に行きました。そこで、本日の講師の一人であるKさんから、昭和8年に木の茎崎橋ができるまでは、この周辺では唯一の交通手段であったこと、こちら側(沼の西側)が永作の舟渡し、対岸側(沼の東側)が天神下の舟渡しで、昭和の初めころ渡し賃が2銭であったことなどの説明を受けました。  次に、旧茎崎村の大字の一つである下岩崎の集落センターを訪ねました。こうした集落センターには、昔の石造物が集められていることが多く、ここにも馬頭観音の石碑などの多くの石造物があったほか、観音堂がありました。  この観音堂は、豊臣政権下、牛久城主となった由良国繁の母月海妙円尼が、かってのこの地方の領主であった岡見一族はじめ多くの戦死者の霊を弔うため、領内に七観音八薬師を建立したそうですが、そのひとつである岩崎下の観音が祀られているといわれています(なお、お堂は別なところ=旧字地蔵堂の近くにあったもので、ご本尊だけここに移されたともいわれているようです)。  八観音の一つに、旧谷田部の羽成観音がありますが、ここの天井画は「谷田部に過ぎたるもの三つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と歌われた蘭学者の広瀬周度が描いたとされており、谷田部マップでも紹介されています。  このあと、守徳寺に伺いました。予定時間に遅れ、ご住職にご迷惑をおかけしてしまいましたが、寺宝の護摩の灰弁天像を拝見させていただきました。  この護摩の灰の弁天像、元は泊崎の弘法大師堂にあったものが、太子堂を...

高崎から菅間 22.10.7(木)

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 今日は、高崎の孝学院前の旧道の突き当りにある道祖神 ⇒子育延命地蔵尊⇒郷中塚古墳⇒月読尊石碑⇒菅間の熊野神社を訪ねました。    旧道の奥の道祖神さまの祠  Kさんのお話では、数年前まで、孝学院の入り口には犬供養のザガマタがたてられていたようですが、見当たりませんでした。だんだん、昔の風習を伝える方がいなくなってしまったのでしょうか。  ここから、高崎十字路へゆく途中、長屋門のあるお屋敷を過ぎると、子育延命地蔵堂があります。  地蔵尊縁起によると、ここに祀られている子育延命地蔵尊は、奈良時代の高僧、行基(668年~749年2月23日、没後、朝廷から菩薩の称号が下され、行基菩薩といわれる)の作とされており、さらに、小田氏の始祖とされる八田知家(平安時代後期から鎌倉時代の1218年)の守り本尊であったとされていますが、一方で、現存する子育延命地蔵尊は、金箔・木造で、享保三年(1718)領主山口公寄進とあるとされています(茎崎村史P209など)。一体どのような経緯があったのでしょうか?  なお、茎崎町史には、写真が掲載されています(P287)。   地蔵堂と敷地内の石仏など  そういえば、このお堂は享保三年(1718)に建てられたようですが、その向きは、道路に向いておらず、すぐ隣地の塀になってしまいなんとも不思議です。道路の位置が変更になったのか、明治初めに廃寺となった高雲山龍蔵寺成就院(文明五年・1473建立)の敷地は、寛政八年・1796の諸色改帳によると幅二十七間、奥行二十間あったとされますから(高嵜 その昔を語るP18)、お堂の前面も、もっと広かったのでしょう。  次に、高崎十字路を渡り、茎崎第一小学校敷地にある郷中塚古墳と市の天然記念物に指定されているシイの木を訪ねました。    茎崎第一小学校の校庭の塚は、元は現在の十倍近くあり、大日塚と呼ばれた古墳ともいわれています。郷中塚古墳群は5基あったといわれますが、現在残っているのは、ここと、校庭の南側の2か所のようです。 校庭の南側の古墳  この古墳の上には、宝篋印塔と石碑がありました。    宝篋印塔の方は、隅飾りのついた笠、塔身、基礎、返花座はあるのですが、相輪の部分などがなく、基礎も一つ多いようです。なお、二段目の基礎と思われる部分に格座...

城山・高崎 22.7.7(水)

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 今日は、城山団地からスタート。ここは、岡見氏の支城である高崎城があったところで、当時は周囲を稲荷川沿いに広く水が入り込んでおり、さらに、堀や土塁をめぐらせていたようです。現在は、団地の造成で面影が残っていませんが、土塁の一部と思われるところや古い地図から当時が偲ばれます。 Kさんの資料から  要害とは、城砦とかとりでの意味であり、「要害」の部分に砦があったと思われます。古い写真を見ると、要害の部分はかなり高くなっていたようです。  ①の部分には大手門があったとされ、②にあった神明様と字「観音」の③あたりにあった馬頭観音は、高崎の八坂神社に移されたといわれています。       .城の大手門跡、.八坂神社に移された神明さまと馬頭観音(それぞれ写真の右側) 伊勢神宮の神霊(天照大御神)を分祀して祀る神社のことを神明社といい、「神明さま」とも呼ばれているようです。  次は、大手門跡から北へ向かい、高崎十字路の手前にある「牛久城主岡見五郎兵衛せ逝去の地」と書かれた供養碑を見ました。  これは、天正16(1588)年、この地域を支配していた岡見氏が下妻の多賀谷勢に攻められ、高見原で激戦になり、牛久城主であった岡見五郎兵衛が、その家来で高崎城主であった佐野内膳とともにこの地(字千部塚付近)で討ち死に(あるいは自刃)したことを悼んで、昭和14年に建立されたものだそうです(茎崎町史P228など)。  慰霊碑から北上し、県道143号谷田部牛久線を横切って、茎崎第一小学校へ。  小学校の脇には、お三ツ目さまが祀られていましたが、柵に囲まれており近くによることはできませんでした。  小学校には、郷中塚古墳の一部が保存されていましたが、詳細はまた今度として、お隣の八坂神社へ。高崎の八坂神社は、平成21年6月に補改修されており、社殿のうえには覆屋(おおいや)が設けられ、見違えるようになっていました。   創建年不詳(天正2年(1574年)創建とする資料もある) 祭神はスサノオノミコト 古来「牛頭天王」と尊称されるも、明治年に八坂神社に改称 旧村社 境内社としては、稲荷神社、厳島神社、鹿島神社、八幡宮、猿田彦神社、神明神社、日枝神社、天満宮、愛宕神社が祀られています。  一の鳥居と二の鳥居の間の長い参道の...